出鱈目な「土用丑の鰻」の流布説

土用鰻についての出鱈目な説がますますひどいことになっているので、文献史料の裏付けによっていかに出鱈目であるか、丁寧に論証してみましょう。かなり以前に書いた文章ですので、難い表現があるのはお許し下さい。すでに「土用鰻の平賀源内起原説の出鱈目」という拙文を公開してありますから、お急ぎの方はまずはそちらを御覧下さい。


 夏の土用には面白い食文化が伝えられている。食欲もなくなる程に暑い時期であるからか、夏ばてや夏痩(なつやせ)防止のために鰻を食べるという風習である。鰻が夏痩防止に効果があるということは、『万葉集』の大伴家持の歌が根拠になっているようだ。それは「石麻呂(いわまろ)に 吾物申す 夏痩に よしといふものぞ  鰻(むなぎ)取り喫(め)せ」(『万葉集』3853)という歌で、大伴家持が痩(や)せている友人の吉田(よしだの)連(むらじ)石麻呂(いわまろ)に贈ったものである。 夏痩によいというので、鰻を捕って召し上がれ、という意味であり、石麻呂はいくら食べても太らないので、家持がからかって詠んだという説明まで付けられている。
 江戸時代にもこの故事はよく知られていて、『天保佳話(てんぽうかわ)』(1837)という書物には『万葉集』の大伴家持の歌を引用し、「夏の土用に鰻を食べるのは、鰻が夏痩を癒すものだからである」と記されている。確認したければ、「国会図書館デジタルコレクション天保佳話」と検索し、その22コマ目に載せられている。

 夏痩防止に鰻を食べよというこの歌のお蔭で、現在も夏の土用鰻は食習慣として続いている。しかし夏場の鰻には脂がのっていない。かえって冬の土用鰻の方が脂がのっていて美味いという人もいる。夏痩対策の夏の鰻は、鰻自身が夏痩しているのである。もっとも関東地方に多い江戸前の鰻は、白焼きしてさらにじっくりと蒸し、余分な脂を落とすので、夏痩した鰻でも十分なのかもしれない。

 そもそも夏の土用の丑(うし)の日にうなぎを食べることについて通説では、夏に売り上げの落ちた鰻屋が博学で知られた平賀源内(ひらかげんない)に相談したところ、「本日土用の丑の日」と書いて店先に貼り紙をするようにと言われ、そのようにしたところ大繁盛をしたということになっている。そしてこの話は青山白峰が著した『明和誌』(1822)という随筆に載せられているということになっているが、『明和誌』にはそのような記述はない。ただ「土用に入り丑の日にうなぎを食す。寒暑ともに家毎になす。安永天明の頃よりはじまる」と記されているだけである。これは「国会図書館デジタルコレクション『鼠璞十種』と検索し、その二巻の14コマ目で確認できる。

 また源内が「風来山人」の名前で著した『里のをだまき評』という書物に「土用の丑の日に鰻を食べると滋養になる」と書かれているという説もあるが、そのような記述もない。ただ「江戸前うなぎと旅うなぎ(江戸の外からもたらされた鰻)程旨味も違はず」と記されているだけである。土用の丑の日に鰻を食べる風習が一般に広まったことは事実であるが、源内の助言から始まったというのは、全く根拠がないのである。

 しかし天保十一年(1840)頃に橋本養邦(おさくに)が描いた『江戸年中風俗之絵』には、夏の土用の鰻屋に「今日うしの日」と書かれた広告が貼られている場面がはっきりと描かれている。「国会図書館デジタルコレクション『江戸年中風俗之絵』と検索し、その2巻の7コマ目にはっきりと描かれているのが見られる。源内起原は根拠がないが、夏の土用に「今日うしの日」という広告が張り出されていたことは事実なのである。

 「天保年間の土用鰻」ということについて、それを補強する史料がある。山形商工会議所が大正十二年(1923)に出版した『山形経済志料.』の第二集に、「土用鰻の事」と題する話が載せられている。それは父の鰻屋を嗣いだ二代目鰻屋で、嘉永三年(1850)生まれの柴田彦兵衛が父から聞いた話を語っているものである。それによれば「天保年間以前には丑の日になつたとて別に鰻を食べるやうな事はなく、商売は至て閑散なものであつた。それが天保年間以来弗々(ふつふつ)売れるやうになり、天保の末弘化嘉永年間には最も繁盛し、土用の丑の日には何んでも彼でも鰻でなければならぬと言ふやうになつた。その由来は詳(つまびら)かではないが、丑の日に食べると其年は決して病疫に襲はれぬと伝へられてゐるのだ。」。これは大変珍しい記録で、「国会図書館デジタルコレクション『山形経済志料』」と検索し、2巻の25~26コマ目で読むことができる。

 そのほかにも天保年間の『娘消息』という通俗小説にも「土用鰻」という表現がある(国会『娘消息』初下18左2・3行)から、天保年間には土用鰻が庶民の行事食として定着していたことを確認できる。これは「国会図書館デジタルコレクション『娘消息』」と検索し、初編下の18コマ目左ページ2~3行目にある。

 ただ土用の丑の日には本来は鰻を食べなかったという、全く正反対の説がある。『風俗画報』一五九号(1898)には、次の様に記されている。「往古、土用中の丑の日に鰻を食すれば、大悲(だいひ)利他(りた)不尽天(ふじんてん)の如く諸願満足を主る虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)の忌諱(きき)に触(さわ)ると云て、世上普通の人は皆この日鰻を食せざりしなり。而して日常膳に魚肴(さかな)を上(のぼ)すこと能はざる貧人は、この日に限り廉価を以て鰻を食し得るに因り、皆争てこれを求めり。何れの鰻店もこの機に乗じ、これ等貧人の注意を喚起するが為めに、紙牌(しはい)を店頭に掲げ、以てこれを待ちしが、今は全く反対になりしこそ笑(おか)しけれ」。

 虚空蔵菩薩信仰の禁忌として、土用丑の日には鰻を食べない風習があったため、この日ばかりは鰻があまり売れないので鰻の値段が下がる。それで貧しい人がそれを狙って鰻を買い求めるので、鰻屋が店頭に丑の日に廉売する広告を掲げるようになり、今は本来の禁忌の意味が忘れられてしまい、皆が土用鰻を食べる様になったというのである。古くから鰻は虚空蔵菩薩の乗り物であるとか、虚空蔵菩薩は丑年と寅年生まれの人の守り本尊であるという俗信があり、虚空蔵菩薩信仰に縁のある人や地域では、鰻を食べることが禁忌とされてきたことは事実である。これも話としてはなかなか面白い。しかし『風俗画報』の情報は玉石混淆であり、現在はこれを考証する材料を持ち合わせていないため、一つの説として紹介するに留めておく。

 現在では鰻は夏の土用の行事食ということになっているが、近年に寒の土用にも鰻を食べる風習が始まっている。長野県の岡谷には、「寒の土用 丑の日 発祥の地」と刻まれた石碑まであるという。確かに夏の鰻より冬の鰻の方が脂が乗っている。それで町興しや観光的視点から二匹目の泥鰌(どじよう)ならぬ二匹目の鰻を狙って、そのような食文化を広めようというのであろう。

 しかし寒の土用に鰻を食べることは、とっくに江戸時代から行われている。既に引用したように、『明和誌』には「寒暑共に」土用鰻を食べることが記されていた。『東都歳時記』にも、「十一月・・・・寒中丑の日・・・・諸人鰻を食す」と記されている(国会『江戸歳時記』秋冬51左)。石碑までできてしまうと、もう既成事実化して独り歩きしているのであろう。「復興の地」なら理解できるが、「発祥の地」は歴史の捏造である。寒中の土用鰻は近年になって始められたことではなく、本来は江戸時代に普通に行われていたことなのである。そうすると夏痩防止の土用鰻は後付けの理屈である可能性が高く、土用との関係に何か意味がありそうである。

 半世紀近く歳時記の研究などをしているが、平賀源内説を立証できる文献史料など見たことがない。まことしやかにそのような解説をしている人にその根拠を尋ねれば、何一つ答えられないであろう。

 また「う」の付く物を食べるという風習があるとも説かれているが、そのような根拠は何一つない。みな俗説を検証もしないで摘まみ食いして垂れ流しているだけである。